
津久井の城山(標高375メートル)に今から約500年前、自然の地形を巧みに利用した戦国時代の山城『津久井城(築井城)』が築かれていた。現在は城跡の大部分が県立津久井湖城山公園として整備されている。近年の発掘調査で城主が居住したとされる御屋敷曲輪(くるわ)と離れた場所に、池跡がある庭園遺構が確認された。昨年、その北西部に館があったと推測される曲輪から遺物も出土し、今後の調査に期待が寄せられている。
有力な支城として
別名「宝が峰」と呼ばれるこの山城が築かれたのは『新編相模国風土記稿』によると鎌倉時代とされているが、現在見られる遺構は戦国時代(16世紀)に使用されていたものと考えられている。
16世紀の関東エリアは北条早雲や武田信玄、上杉謙信といった戦国大名が覇権を争い、津久井地域は小田原北条氏の勢力下にあり、城主の内藤氏は北条氏の重臣として甲斐の国との境目を守り五代にわたり津久井領を治めた。津久井城は小田原城の下に設けられた有力支城として重要な役割を果たしていたようだ。
今年の大河ドラマでは戦国武将、豊臣秀長・秀吉兄弟が描かれるが、津久井城は1590(天正18)年、その豊臣氏による小田原攻めに伴い落城。攻め入ったのは徳川勢の本多忠勝や平岩親吉だと伝わる。落城後は豊臣氏から領地を与えられた徳川家康が統治した。
市民協働で調査
城跡の発掘調査は、城の歴史的価値の把握を目的に1995年に始まった。今も市民協働事業として市文化財課、市立博物館、県公園協会がそれぞれに所属するボランティアとともに調査を続け昨年、開始から30年を迎えた。調査にも参加する、同公園の野口浩史園長は「公園として整備されているため、遺構の保存状態は極めていい」と話す。
昨秋、「城坂曲輪群」の一つ「7号曲輪」の調査報告があった。既に「5号曲輪」では16世紀後半の池跡がある庭園遺構が確認されている。それに関連した成果が期待される中、「7号曲輪」では人為的に平場を作り出した造成面が見つかり、建物の柱穴や砂利敷き遺構も発見された。かわらけ(素焼きの杯や皿)なども出土。市文化財課担当者は「城主らが庭園を愛で武家儀礼や饗宴が催された可能性が考えられる」と分析する。
ここにあった館は誰が、何のために造ったのか。多くの歴史家たちが悠久の時に思いを馳せ、今後のさらなる調査に期待を寄せている。